元気印「こっこ亭」のきまぐれ旅

カテゴリ:戦争・終戦前後の話( 23 )

終戦(敗戦)の日を前にして・・・

あと1時間足らずで8/15、終戦の日を迎える。

5才7か月で迎えた敗戦の日。

その日の風景はなぜか頭に残っていない。
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サーチライトの色や光、防空壕の中の闇の色、南の
空(大阪方面)を燃えながら木の葉のように落ちて
いく戦闘機・・・などは鮮明に覚えているのに。

よくニュースで流される悲嘆にくれる大人の姿も
記憶には無いのだが、「戦争が済んだ!」という
ホッとした気持ちが大人にも子どもにも充満して
いたことは覚えている。
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戦争中も勿論、それからの戦後もろくな食料が
無くて悲惨な生活が待ち構えていたのだが・・・

5人兄妹の末っ子で生まれ、上4人はすべて男子。

3番目の兄は私が生まれる前、4~5才の時、
家の横手の材木置き場で遊んでいて、その材木の上
から落ちた事故が原因で亡くなったと聞いている。
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長兄は大正14年生まれで私とは14才違い、次兄
は3才ほど下で、この次兄が、病弱だった母に代わって
幼少時代の私の面倒をずっと見て、可愛がってくれた。

この兄が戦後すぐか、翌年に亡くなっているのだが、
京都・伏見の実家は今はなく、過去帳で命日を確認する
ことも今はかなわない。

すぐ上の5才年上の兄は松下電器に勤務し、退職後も
寝屋川市で暮らして8年前に逝去したが、この兄と
食べ物の争奪戦をよく演じていたものだった。
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ものの無い時代、次兄が自分の食べる分を小さい私に
食べさすために自分を犠牲にしていただろうことを、
ずっとあとになってから気づいたのだが、そのために
家族の中でただ一人“栄養失調”というその当時は
よくあったことだが、これが原因で亡くなってしまった。

小さいながら悲しくて、悲しくて・・・

その後は長兄が私の面倒をよく見て、可愛がってくれた。
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私が今、こうして元気に生きていられるのは次兄のお陰。
「ちっちゃいチャン」と呼んでいた。

食べるものの無いあんなに悲惨な生活は二度と繰り返し
たくないし、絶対に繰り返してはいけないと強く思う。

戦争絶対反対!核兵器絶対反対!!
地球上の恒久平和を祈り、戦争犠牲者のご冥福を祈って・・・

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「12月8日」という日に思うこと・・・

今日という日、どこかの国の新聞やマスコミでまた日本が叩かれて
いるのだろう・・・

12/8、日本軍の真珠湾攻撃で、第二次世界大戦が始まった日。
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終戦(敗戦)70年以上経った今も、重箱の隅をつつくように、
“慰安婦問題”他、当事国でない国にまで日本は攻撃され続けている。

今、世界のあちこちに「暴君」出現で、地球上がきな臭い!!

早まってはいけない!
絶対に、再び過ちを繰り返してはいけない!!
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「地球滅亡」に繋がりかねない状況で、誰が、世界平和への道へ
導いてくれるのだろう・・・現れよ!偉大なる善人!!

心細いばかりの世界情勢・・・

どうか平穏な2018年になりますように・・・

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核廃絶!! 戦争、絶対反対!!! 

私の8月15日・・・71年前の終敗戦の日

5才7か月で迎えた「終戦(敗戦)の日」をよく覚えていない。

ガーガーと雑音の多いラジオはあったが、天皇陛下の「玉音放送」と言われる
ものも覚えていないし、家族がラジオの前で悔しがったり、泣いたりしていた
姿もなかったように思う。
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一般庶民の我々、戦争が終わったことにほっとしていたのではなかろうか・・

毎日、毎夜、いつ来るかしれない『空襲!』の恐怖におびえていたあの頃、
食べるものもなく、がりがりに痩せていた人や栄養失調でなくなっていった
人が町内に何人もいた。

わが親はどこから手に入れていたのか定かではないが、わが家はまだ良いほう
だったように記憶している。
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それでも、しょっちゅう「お腹が空いた」という状態だったようにも思う。

その後に始まる“戦後”の貧困や食料不足の過酷な時代も、わが家の両親は、
我々をよく守ってくれたと思う。

サツマイモの葉や大根の葉、大豆かすやイタドリ・はこべ等の野草など、
食べられるものはなんでも食料になった。

よその畑に入って、作物を盗む人もいた。
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今、飽食の時代、あの時代に戻りたいとは思わないが、あまりにも贅沢すぎて、
あまりにもいろいろありすぎて、このままでいいのか・・・と思う時もある。

戦争の悲惨さを伝える我らの年代の人間も少なくなる一方、いまだに世界の
あちこちで勃発している戦争やテロ、どうして人間はこうも馬鹿なのか、
愚かなのか・・・と、悲しくて、情けなくて仕方ない。

どうぞ、明日も明後日も、未来永劫『平和』でありますように・・・

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≪ 新パソコン・Windows10から投稿 ≫

終戦(敗戦)70年にあたって・・・

昭和20年8月15日、終戦の日を5才で迎えた私も75才となり、あの
愚かな戦い」をナマで記憶している最後の年代の人間だろう。

先日来、8/6の広島、8/9の長崎の原爆投下の祈念式典の特集番組を
見ていて、私には、赤く焼けただれた被災者の方たちと重なって見えて
くる人達がいる。
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28才まで過ごした私の生家は、京都・伏見の戦時中「第16師団」が
置かれていたすぐ南、俗に「師団街道」と呼ばれた府道35号線に
面した所にあった。

幸い、京都は爆撃を受けなかったが、大阪はたびたび爆撃を受け、その
爆撃のあった翌日になると、撃墜された爆撃機から収容された米英兵士
が、まるで丸太のように身動きならない牛蒡抜き状態で、軍用トラック
満載されて南から北へ運ばれて行くのを幾度目にしたことか・・・
愚かな行為だが、これを目撃して“歓声”をあげていた我々・・・

その度合いは違うかもしれないが、この兵士たちが、あの原爆投下直後
の真っ赤に焼けただれた人たちと同じような状態だったことが今も脳裏
に残っている。
わずか4~5才で焼き付けられたこの記憶・・・
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催眠にかけられていたような状態の中、勝てるはずもない戦いなのに
騙され、洗脳され、鼓舞され続けて、大人も子供も戦争一筋だったあの
おぞましい頃・・・

安保問題云々で今の日本がどの方向に向かって行くのか、何やら“きな
臭さ
”を感じて心配で不安でならないのは私だけではないだろう・・・

未来永劫、戦争の惨禍を絶対に繰り返してはいけない!!
この地球上からの『核廃絶』と『恒久世界平和』を切望する!!
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戦陣に散り戦禍に倒れた数多くの方々の御霊に追悼の意を表し ≪合掌

『安保関連法案』、ひと言だけ・・・

私、1939(昭和14)年12月23日生まれ、現在75才。

生まれ育った京都市伏見区において、防空壕に入り、サーチライト
照らされ、≪第二次世界大戦≫を体験した者として、理屈抜きで
ただひと言・・・

「安保関連法案」絶対反対!!
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対「中国」、何事も起こりませんように・・・

世の中には争いごとの好きな人間がいる。戦うことの
好きな人間
がいる。

どの時代の「戦争」も、そういう浅はかな一部の人間
衝動と軽率さから生じている。

今、本来仲良くしなければならない「中国」という隣人
が、挑発・扇動して、わが国の「それ」に乗ってくるの
を手ぐすね引いて待っている。
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絶対に『戦争』をしてはいけない!!

我らの年代が経験した『第二次世界大戦』の悲惨さ、
残酷さ
・・・を二度と繰り返してはならない!!

政治をする人、有識者の皆さん、どうか、この国の平和
未来永劫、子子孫孫まで続くことを知恵を出し合って
何としても守っていただきたい。
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各報道機関・それに従事する人、どうか心して過激
ならないように、良識をもって穏便に報道して頂きたい!

これを打ち込みながら、泣けてくる私。
どうか、どうか何事も起こりませんように・・・
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『狂気の国』騒動・・・石垣島よ、どうか無事で・・・!

1982年7月から4年間、転勤族のわが家が、三重県鳥羽市
から遠く離れた石垣島に転居

娘小4、息子小1の多感な時期を南の空気を吸って、伸び
伸びとすごした、あの素敵な八重山の島が今、あの『狂気
の国』の「ミサイルの危機」
にさらされている。
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今朝(11日)、病院ボラに出かける前、テレビのチャンネル
を何気なく回していて、懐かしいお顔に対面した。

が転校して、4年生の2学期から石垣島での初担任をして
頂いた「やっしー先生」が、大規模校の校長先生に出世され、
今回のことでインタビューを受けておられた。

嬉しいことこの上なし。
だけど、心配なことこの上なし。
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ボランティアをしていても、ここしばらくの石垣島を思うと
ロビーのテレビニュースの画面に、涙が出そうになった。

1982年当時、臨時教員だった先生を、「どうしてこんな
に素晴しい人を正規の教員に採用しないのか・・・」
と、PTA
役員仲間で“教育委員会”に直談判に行き、年齢制限のギリ
ギリで見事「教員採用試験」に合格され、次の春から正式に
石垣小学校に就任された時は皆で大喜びしたのを思い出す。
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その、子供のことが大好きで、教職に情熱イッパイの、間も
なく定年を迎えられる「やっしー先生」苦渋の表情でイン
タビューを受けておられた。

あの当時の生徒たちが、今まさに「学童」を子に持つ親世代
に成長している。

先生、辛いだろう・・・親たちも辛いだろう・・・
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増して、大戦で砲火を潜り抜け、唯一本土決戦の経験をして
いる沖縄の人たち、今の恐怖は「察するに余りある・・・」
などとうがった事は言うまい。

石垣島を始め、どの国も、どの地域も、どうか 無事でありま
すように!!


『戦争』、絶対反対!!
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『8月15日』 に思う・・・

66回目の終戦(敗戦)の日。
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広島・長崎への『原爆投下』がもたらした終戦とも言われているが、今また未曾有の
3/11の東日本大震災の後遺症『原発』による放射能で苦しんでいる現実がある。

いつになったら解決するのか・・・
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「ノ― モア ヒロシマ」、「ノ― モア ナガサキ」を叫び続けた日本の声はどこ
まで届いているのか・・・

今、この地で“普通の生活”をさせて貰えることの有難さ。
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世界のあちこちで戦禍に追われる人がいて、テロや暴動に逃げ惑う人がいる。

政治は混沌としているが、この平穏が脅かされることなくいつまでも続いてほしい。

子や孫たちに囲まれ、自分自身の生活を送れる小さな幸せに感謝!
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昭和14年に生まれ、戦中戦後をかいくぐってきたこの身
あの辛くて苦しくてひもじくて、情けなかった生活を二度と誰にも繰り返してほしく
ない!!

絶対に繰り返させてはならない!!

御霊よ、安らかに・・・
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戦後66年、今71才のババの強い思い!
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「コークス」ってご存知?・・・戦後、物の無い時代の話

懐かしい写真を見つけた。
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「コークス」というものをご存じだろうか?
燃料として「石炭」を使っていた時代の話。
その「石炭」の燃えかすを「コークス」と言って、この「コークス」も
燃料
として使用した。

私の生家は京都・伏見の京町10丁目。
同じ町内に『津田電線(“津田はん”と呼んでいた)』の伏見工場があった。
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今朝、テレビの「平和祈念式典」で黙とうを捧げながら、ふと、戦後の事を
考え出し、食料どころか薪や炭も手に入りにくい時代、近所にあった『津田
はん』の「コークス拾い」
で、近隣の者はずい分助けてもらったな・・・と
思い返した。

今はその跡地は住宅が立ち並んでいて、昔の面影はないが、「津田はんは今も
あるのかな・・・?」
と、インターネットで調べたら、京都・久御山町に今も健在!
嬉しくなってきた。


“伏見工場”は1967年に閉鎖されていたが、戦後の物のない時代、燃料と
して使われた石炭の燃えかすを、京町通りに面した工場の一角に山のように
放り出して
くださる。 (今なら消防署からの禁止令が来るだろうな)
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今思うと、何か合図を出して下さっていたのかもしれないが、当時6-7才前後
では何も覚えていない。

手に手にカネのバケツと小さい熊手やスコップを持ち、手には火傷防止の軍手
はめて、少しでも多く集めたい家は小さい子まで動員して、その「コークス」
山に取りついた。
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冷めると白っぽくなって、これを「七輪(コンロ)」で燃やすと再び赤々と今の
木炭以上の火力になって、煮炊き物をするのに欠かせないものだった。

私も遊び半分で何度か手伝ったことがある。
何と言っても「レクリェーション」のない時代、これも子供たちにとっては、
コミュニケーションの場、レクリェーションになっていた気がする。

子供たちが“縦にも横にも繋がっていた時代”の切ないけれど、楽しい話
そのまま横丁の広場や路地裏、伏見ダムの広場へ行ってはみんなで遊んだものだ。
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『津田はん』の優しさだったのだろう。
今となると何もかもが懐かしい・・・

読売新聞8/15 コラム「編集手帳」より・・・

昨日8/15の読売新聞朝刊1面、コラム『編集手帳』
戦争にまつわるこんな文章を見つけた。

《〽山の淋しい湖に/ひとり来たのも悲しい心・・・高峰
三枝子さんの『湖畔の宿』
(詞・佐藤惣之助、曲・服部
良一)が世に出たのは1940年(昭和15年)である。
替え歌が作られる》◆〽昨日生まれたタコの子が/弾に
当って名誉の戦死/タコの遺骨はいつ帰る/たこのからだ
にゃ骨がない/タコの母ちゃん悲しかろ・・・。ひそやか
に、しかし、たちまちのうちに全国に広まったと、鳥越
信著『子どもの替え歌傑作集』
(平凡社)にある◆戦士
したわが子の遺骨さえ帰らない。大っぴらには口にでき
ない悲しみを替え歌に託し、人々はそっと口ずさんだの
だろう◆話術家の徳川夢声は、戦時下の日記に自作の句
を書き留めている。〈出鱈目に捲きし菜種の霜に堪え〉
〈蝉鳴くや後手後手と打つヘボ碁打ち〉
。家庭菜園や
囲碁の話題を装いつつ、捲かれる「菜種」や打たれる
「碁石」が、戦略なき戦争に翻弄される庶民を指す
のは明らかである。暗号のような替え歌や俳句でしか
ありのままの心情を語れない時代があったことを、言論
の末席に連なる者として忘れまい◆鎮魂の慰霊の日は、
「声」の無事を確かめる日でもある。
》【すべて引用】
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1940年、私が生まれた翌年の歌『湖畔の宿』
美人の高峰三枝子さんと共によく知っているし、今も懐メロ
で歌える歌
にこんな替え歌があったのを初めて知った。

図書館にあるだろうか?
『子どもの替え歌傑作集』を借りて、ひも解いてみよう。

常に相手を思いやり、自分の言動に責任を持って、常軌を
逸してはいけないが、何でも言える今の世の中に感謝!!
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